日々の泡、満ちる月、還る命

整体生活を通しての身体と思いのつれづれを。

美しいものを見つけに


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在宅ワークになってから、美しいと感じる瞬間を探しにお散歩をするようにしている。言葉はなかなか感じる通りのことを相手に伝えることはできないけれど、写真ならわたしが感じたことを端的に伝えることができると思う。

 

これからのことを思うと自然と重心が中心になる。

 

わたしは気体化してしまってから、自分の位置というものが不安定になっていて、新しい自分を発掘しなければいけないと感じていた。それには活元運動が不可欠で、整体の状態から偏り疲労がどう出てくるのかを観察しながら、自分の傾向を紐解いていく実験でもあった。

活元運動は発展途上ではあるけれど、感じたことが言葉になりにくい(感覚を言葉にする働きが鈍いのもあるのだろうが、言葉という共通語に当てはめきれないと感じ拒否しているとも思う)わたしにとって、身体がどう反応するかを体感することは、喜びの発見でもある。

昔、古唐津展である陶片を見た時に腰椎4番がぎゅーーーっとなったこと。
腎臓の痛みと悲しみ。
人に愉気する、される時に見える風景。
そんなことを一つ一つ確認するたびに、自他の感応のエクスタシーともいうべき喜びを感じてきた。

 

ある人が、わたしは「身体を楽器にして、世界を味わう人・伝える人」なのだという。

みんな本当はそうなんだよ、って言いたいけど、彼女は身体の痛みとして感じる前にもう感じたことを言葉にして行動している、とても感覚の鋭い前向きな人なので、活元運動の必要性がないんだと思う。

わたしはなかなか自らの足で立つことが出来ずにいる中で、活元運動をしながら気付いてきたこと…どんな朝を迎えても今日1日を心して過ごす決意をすること、は、もう一生付き合っていくしかない自分の特性なのかもしれないということ…これをやっていけば、わたしは生きていけるような気がしている。

 

わたしには活元運動が必要なのです。