手の感覚
わたしとわたしの外界の間には薄い透明の膜がある。
その膜について先生に聞いてみても、「昔からでしょう」と言われるだけなので、色々試したり観察しながらも、もう治らないものなのだと半分諦めている。
その残り半分が捨てきれないのは、愉気のため。愉気が大好きなのにとても苦手。そしてそれは、相手との距離感を掴むのが苦手というのと、すごく関係があると思う。愉気をされている時みたいに、している時ももっと相手と溶け合いたいと思うのに、実際は何もわからず四苦八苦してうろたえるのです。
その代りというか、だから、というか、内側の感覚を探ったり感じたりすることがとても好きで、どうにかその感じたことを言葉で形にしたいと思う。そうして、ことばが好きなのに言葉にするのが苦手というのも、なんだかわたしらしいなと思う。
結局猫がついと身体を寄せるように、犬がしゅんとなって丸まるように、身体で表現してしまったり、感応テレパシーで生きていることが、先生に原始人と言われる所以なのかもしれない。
頭の中の膜の正体については、文献を漁ってわかってきたことがたくさんあるのだけど、それはどうこう言っても仕方ない、わたしの身体特性なので、ひたすら活元運動と行気をしながら膜を薄くしていくことが、今できること。
それから感じることや思いを言葉にして、ひとと交わっていくこと。小さなことからひとつずつ。
さて…活元運動しましょうか。
追記
今、全生を読んでいたら、手の感覚は足指の可動性の問題だという裕介先生の講義録があった。足指でタオルをつまんだり伸ばしたり縮めたりの稽古は、拮抗の稽古の延長だけでなく手の感覚を高める稽古でもあったのか。これからも継続していこうと思う。