憶
日本語の美しさに涙が出てくるのは、
今のわたしの身体の疲れのせいでしょうか、
それとも純粋なる心の共振のせいでしょうか。
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とあるブログに、
「憶」とは口に出さず胸が詰まるほどさまざまにおもいを馳せること
愛する
慕う
いつくしむ
大切にする
記憶の「憶」
強く憶うことこそが全てを実現させる唯一の方法でありました。
との言葉を見つけ
最近の
言葉に出来ないざわめく心が、きちんと、透明に、折り目正しく包まれたような気がした。
個人指導では
わたしの捻れっぷりを揶揄するような突き放した態度で
これでもかという程の叱咤を浴びせられ
もちろん、有り余るほどの有り難いご指導だとわかっちゃいるけど
泣きながら帰ってきたわたしを見て、
夫
『元気になるための整体で毎回落ち込んできてどうするの』
母
『整体始めてからどんどん自信をなくしていって、本末転倒…。』
などと言う。
でも毎回毎回不思議なことに、
その時傷付いた言葉と、2、3日経つと心の芯に残ってくる言葉というのがはっきりと違ってきて
『あっ、先生はホントはこんなことを示唆してたのか』
なんてわかってウルウルしたりする。
胸が痛いほどの苦しい思いを憶というならば
苦しい思いを覚えておくことが記憶というのかもしれない。
記憶というのは、苦しいままでもいいのかもしれない。
そのおもいはいつか身体中に染み渡って
わたしという命を燃やしながら、燃え尽きていくのが生きるということなのだろうと思う。
今回の個人指導で
先生がわたしの心に残したキーワードは
優しさとは何かを考えなさいということ。
あんなに心をひっぱたかれたのに
私は優しいのだという自信になっていて驚く。
わたしの優しさがどういうものかは示さずに
人はそれぞれその人なりに優しいのだと
自分で自分の優しさを見つめなさいと
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遠回りでも
今のわたしには必要なこと
こころを耕して
感受性を高めること
『憶』を積み重ねて、わたしは燃え尽きたいと思います。