日々の泡、満ちる月、還る命

整体生活を通しての身体と思いのつれづれを。

魂を繋ぎ止めておくもの

 
今、お店で展示中の作家先生は
いらっしゃるお客様と深い深い哲学的なお話をされる方で、わたしはずっと背中側で聞き耳を立ててお話を聞いている。
 
 


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展示会初日に作品について疑問に思ったいくつかのことを聞いてみると、

作品に点を穿つことについて
生きているものと死んでいるものの一面性について
見えないものについて
11次元の宇宙について
素粒子やビッグバン、はたまた唯識について…

初対面の私に、作品以上のことをこれでもかと教示してくださる。


それはある意味
うかつに先生の内面に踏み込んでしまっていないかと恐れ多く
そして同時に私が知りたいことに初めの一瞬で気付いて、想いをお裾分けしてくださったようで有り難く
いつもの展示会とは比べ物にならないほどに私は感激している。
お客様の層も、何か深々と感ずるものを持つような方ばかり。。。

 


仕事の帰りに読みかけの本を開くとちょうど易経についての解説があったので意識が吸い付く。

「形而上者」は見えないもの…万物の背後にある気の動きを言う。それは極小であり極大であり混沌でもある、つまり道(タオ)である。

「形而下者」は姿や形つまりこの世に存在する「見えるもの」であり、見えないものを容れる「器」を表している。
要は、姿とは、目に見えない道(タオ)を容れる器である。

という。


器の「ウツ」は「空」を表し、「ワ」は「輪」とか「盤」とかそういう容器を表すというのは聞き知っていたけれど、形而上・下については初めて知って、ハタと膝を打つ。


作家先生は言う。
「茶碗はなにか、違うんですよね…こう、掌の中に何を包み込むかということなんだけれども」
と、茶碗への特別な思いを語っておられるが
先生の茶碗(器)には、その通り、内側が「虚ろ」ではなく何かで「満ちて」いるのが見える。

私は知識も経験も浅いけれど、何だか良い感じ、と思ったお茶碗には共通して
無いものを待っているのではなく、見えないけれど在るものを抱えている茶碗だったんだな、ということに、今更ながら気付いたという感じ。。。


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初日の話の続き。
「気とか量子論とか阿頼耶識とか…そういう目に見えないものに興味があり、まだまだですが、整体を通して学んでいるところです」
とお伝えしてみると
あちらの世界に連れて行かれないように
3次元と自分を繋ぎ止めておく何かを持ちなさいと、言われた。


私にとってその命綱は何かと考えると
それは
わたしの虚ろな身体感覚を通して感じる、自分以外の命の器というものなんだろうなと思う。
そうだとすれば、
私は1番苦手な愉気を磨いて
命を容れる身体に礼を尽して触れる手を作って、触れ続けていくことが、この世に留まる方法なんだろうなと、思っている。


 
遠回りすることに
ここのところ、心底飽き飽きしていたけれど
遠回りも、結構、重要なんだなぁ。